投稿日: 2025-05-26エッセイ(山静学友会)
TT(1993-1994年度・国際親善奨学生)
小学生の頃、ソポクレスの『オイディプス王』を初めて本で読んだ時、私は深い憤りを覚えた。当時、「オイディプス・コンプレックス」という言葉を「マザコン」と同義語として理解していた私にとって、その原典となる物語の主人公は、予想とはまるで異なる高潔な人物だったからだ。なぜ、これほど立派な人物が、知りもしない罪で、かくも過酷な運命に翻弄されなければならないのか…その理不尽さが、幼い私の心に深く刻み込まれた。
スフィンクスの謎を解き、テーバイの民をスフィンクスの災いから解放したオイディプスは、王を失っていたテーバイの民衆に請われて王となり、善政を敷き、老若男女から慕われていた。また、前王の未亡人であるイオカステを妻にめとり、その弟であるクレオンともども非常に大事にしてきたことが、彼らとの会話からうかがえる。
テーバイを襲う疫病と不作の原因が前王殺害犯の存在にあると神託で知り、オイディプスはその手がかりを追う。この過程で、預言者やクレオンを口汚く罵る場面もあるが、これは民を救いたい一心からの苛立ちと、見当違いの疑いをかけられたことによる誤解であり、決して傲慢さからくる態度ではない。
しかし、調査が進むにつれて、前王を殺害したのが他ならぬオイディプス自身であることが判明する。それは、ライオス側からの先制攻撃に対し、誇り高きオイディプスが自衛のために応じた結果であり、不運な事故とも言える出来事だった。それでもオイディプスは真実から目を背けず、保身を図ることもなく、全てを妻イオカステに告白する。さらに、自身が殺害者に対して課した「誰もその者を家の中に迎え入れてはならず、言葉をかけてはならない」という呪いを、自らが受けるべきだと認める。
“しかもこの呪いをかけたのは、ほかでもない、このおれだ、この両の手で殺した人の臥所をおれは穢している。
おお、おれは見下げ果てた奴ではないか?身体じゅう不浄の者ではないのか?”
さらに、オイディプスがコリントス王の実の子ではなく、足のくるぶしを貫かれて捨てられた赤子であったという出生の真実が明らかになる。この事実にいち早く気づいた妃イオカステは、夫が真実を知ることを止めようとする。かつて「我が子に殺される」という神託を恐れ、生まれたばかりの我が子を捨てさせた彼女は、現在の夫こそがその子であると悟ったのだ。
しかしオイディプスは妻の制止を聞かず、当時の羊飼いから自身の出生の秘密を聞き出す。恐ろしい神託が成就していたことを知った彼は、自らの過酷な運命と、それを先に悟っていたイオカステの絶望に狂乱し、夫婦の寝室へ。そこには、おぞましい真実に耐えかね自死したイオカステの姿があった。オイディプスは彼女の服の留め針で自らの目を刺す。
“おれの不幸、おれの悪業を見るのもこれが最後だ。見てはならぬものを見、おれが知りたいと願っていた人を見分けることのできなかったお前らは、今後は暗闇のうちにあるであろう。”
“おれのやったことがこれではよくなかったなどとは言わないでくれ。もう忠告もいらぬ。目が開いていれば、冥府に行った時に、どの眼でもって父を見ることができよう。おいたわしい母上とても同様、お二人におれは首をくくっても及ばぬ罪科を犯した。”
彼はクレオンに疑いをかけた非礼を詫び、この地からの追放、イオカステの弔い、そして娘たちの世話を懇願するのだった。
オイディプスは、父を殺そうと思って殺したのではなく、母を娶ろうと思って妻にしたわけではない。むしろその神託を恐れて、その成就しない道を選ぼうとして、結局運命の三叉路にたどり着いてしまった。では、オイディプスが、または父王が違う選択をしたら、神託は成就しなかったのか。多分、結局あの三叉路で父を殺してしまう運命だったのだろう。一体、オイディプスはどうすれば良かったのか?なぜ、知らずに行ったことでオイディプスはこれほどの罰を受けなければならないのか。責められるべきは、そんな忌まわしい運命をオイディプスに与えた神ではないのか、自分でそんな運命を与えておいて罰するとは酷すぎる。しかし、当のオイディプスは自らを悔い、両目を突いて自らを罰し、父母のため、子のために自分を責めた。周りの人もオイディプスの不幸を哀れみながらも、オイディプスが罰を受けることを当然として取っていた。小学生の私には、この話に出てくる神にも、オイディプスにも、周りの人々にも全く納得がいかなかった。
初めて本を読んでから40年間、折にふれ、オイディプスについて考えてきた。当初、自分の意図していない運命にも責任を負うということが全く理解できなかったが、少しずつ、運命も含めて自分の責任として行動するオイディプスの生き方こそが、この物語に自分を引き付けて離さない根源的な魅力であると考えるようになってきた。もしオイディプスが他責の人で、そんな運命は望んでいなかった、おれは知らなかった、罰せられるべきでないと言っていたら、これほどの長きにわたり人の心に刻まれる名作として知られることはなかっただろう。
物語を通して、オイディプスは自らの運命をすべて受け入れ、その責任をすべて引き受けたと見える。しかし、そんな彼がただ一度だけ、痛切な恨み言のような言葉を発している。
“おお、キタイロンよ、なぜおれをかくまった?この素性をおれが世にあばかぬように、どうして受け取ったその時に、すぐさまおれを殺してはくれなかった?”
当初、私は「キタイロン」を赤子のオイディプスを受け取った羊飼いのことだと思っていた。しかし、調べてみると、それはテーバイの山岳地帯を指す言葉だと知った。この事実は、オイディプスが結局、この悲劇的な運命を他の誰のせいにもせず、ただ自分の責任として深く受け止めていたことを物語っている。彼は最期まで気高く、揺るぎない人間性を持っていたのだと、私は改めて感じた。
オイディプスが品性下劣な人間だったのであれば、コリントスの王と妃にも我が子のように愛されなかっただろうし、避けられない事故としてではなく、己の欲望のために父を殺していたという人生もあり得ただろう。おぞましい運命がどうしても避けられないものであったならば、オイディプスはそれでもいくつもの選択肢から最良のものを選びとり、与えられた運命を生きたのだと思いたい。
私は多分、この先もずっとオイディプス王に想いを馳せるのだろうと思う。
photo: View of Mount Cithaeron from Aigosthena, by C messier