投稿日: 2026-07-16エッセイ(山静学友会)
望月昭宜(1990-1991年国際親善奨学生:現在の日本でアメリカ・イスラエルがしかけた、イラン戦争の影響を受けていない人は稀であると思います。日本人の生活を支える原油という資源の供給が断たれるという、”油断”の悪夢がどの位続くのかは誰にも判りません。このホルムズ海峡の封鎖という事が起こるまでは、多くに人にはイランとアメリカの揉め事は、遠い国の話であったと思います。今から24年前に、この関係は自分事として強烈に降りかかってくる体験をしました。担当している製品が出荷直前に、イランへの輸出が出来なくなるという。
1.アメリカの高度技術を使用した製品をイランへの輸出制限
2002年の2月に、アメリカのEmerson Process Management 事業部に転職をしました。富士市の機械メーカーの海外営業からの転職でした。親会社のEmersonは1890年創立で、モーターの制作から始まり、現在は60を超える独立した部門を抱えるアメリカを代表する複合企業です。日本で言うと、日立や東芝のような会社で、世界150国に展開しています。
転職したEmerson Process Managementは石油化学プラント全体を監視・制御する工業用コンピュータと、製造過程のデータ(温度、圧力、流量、液面、Ph等)をコンピュータに送る計測装置を販売していました。仕事としては、計測装置を日本の大手エンジニアリング会社(日揮・東洋エンジ・千代田化工)に売り込む事でした。当時の東洋エンジニアリングはイランからAR-4という大型プロジェクトを受注しており、私はこのイラン案件を担当していたのでした。
出荷の丁度2か月位前だっと思います、この輸出制限措置が、東洋エンジニアリングに納入予定の質量流量計に適用されました。この流量計は、毒ガス製造やウラン濃縮に使用できる高度技術使用の製品だからです。実際にサリンを製造したオウム真理教のサティアンから、Emersonの質量流量計が発見されて、会社では結構な騒ぎになりました。
2. 日本工場からは出荷は出来ないという決定
日本工場はアメリカ本社から、主要部品を輸入しておりました。使われている技術は全てアメリカ製です。したがって、日本からの輸出は出来ないとなったのです。その後は本社を含めて、連日の対策会議でした。私は社内の会議と客先との会議と、昼も夜も会議の連続でした。このプロジェクトが上手くいかないと、せっかく転職できたのに、責任を取らされて”クビか~”という事も考えました。どこの国でも、責任は末端の社員に来るという事になっておりますから。
3.さてどうしたのか?会社としても大口の注文ですし、予定された売り上げを落とすという訳にもいきません。日本からの出荷は出来ないが、オランダ工場からの輸出するという、回避策に辿り着きました。アメリカ政府も自国の企業を直撃する措置には、例外規定を設けていたのです。ヨーロッパでは現地調達部品多く、輸出禁止になる技術を使用する部品の価格比率が、何んとか輸出制限措置にかからない範囲になっていたのでした。
4.一安心していた所に、突然のオランダ出張命令
方向性が見えて色々とオランダ工場との打ち合わせも進み、客先の検査員の出荷検査の日程も決まりました。やれやれと思っていた時の事です。突然本社の実力者から、”絶対に出荷させる為に、望月をオランダに派遣しろ”という命令が、日本法人の社長に降りて来たのです。確かに現地に日本語を話す担当者がいて、問題が発生した時には東洋エンジニアリングと、協議したり交渉するのが一番合理的です。しかし、現地検査日の3日前の命令です。慌てて、旅行代理店に電話しても、”直行便の予約が一杯です”との返事。唯一の方法は、地球を反対廻りで、シカゴに飛び、ヨーロッパに渡るという事です。行くしかありませんでした。記憶によると、日本を出てからオランダに到着まで、24時間はかかったと思います。オランダのホテルに着いた時は、ヘトヘトだったと思います。幸い無事出荷追えて帰国する事ができました。
帰国して暫くの間は、同僚たちからは、”望月はマイルを稼ぐために、ワザと地球を反対周りした”とからわれました。今回のホルムズ海峡の封鎖に関しては、色々な人があの時の私と同じ様に、連日の対策会議をしたり、出張をしたりと大変であろうと、想像しております。
追記:エッセイの巻頭に乗せたイラストは、賢いAIにエッセイの概要を読み込ませて、苦闘するあの当時の営業マンである私を描いてもらいしました。年号の1998年を訂正させようとすると、全く違ったイラストに替わってしまうので、そのままにしました。
